突然胸が苦しくなり、奥から熱いものが込み上げる。まずい、と思う間もなく熱を帯びた塊が、咽喉を超えて外へと飛び出した。

「鴆様!」

 口元を手で覆い、突然膝をついた鴆に気付いた側仕えの妖が、慌てた様子で駆け寄ってくる。視界の隅にそれを捕らえてはいたが、呼びかけに応じる余裕は鴆になかった。
 口元を押さえた手の指の隙間から、赤黒い液体が零れ落ちる。止めようとしても咽喉の奥からは新たな血が上ってくるから、足元の地面は次第に赤く染まる部分を広げていった。
 込み上げる血によって、無理矢理咽喉を開かれる苦しさに咳が繰り返される。漸くそれら全てが収まる頃には、鴆の手も大地も赤く染まってしまっていた。

「大丈夫でございますか、鴆様」
「ああ、突然悪かったな」

 健康なはずの側仕えの方が真っ青な顔色で様子を窺ってくる。それを見た鴆は、苦笑交じりで大丈夫だと伝えてやった。
 発作のような吐血は、身喰いの毒を持つ「鴆」という妖にとっては宿命的な症状だ。これまでも幾度となく経験してきた。
 血を吐いている間は苦しいが、収まりさえすれば直ぐに症状は落ち着く。咳き込むために乱れる呼吸も、次第に落ち着いたものに変わった。

「それにしても、あちこち赤く染めちまったな」

 零れた血は、鴆の手も大地も染めている。飛沫はそこだけに留まらず、よく見れば着物や手にしていた風呂敷包みも斑点状に付いていた。
 血は水溶性だから、洗えば落ちる。しかし洗うためには、当然のことながら水が必要であった。
 間の悪かった事に、鴆は妖仲間に乞われて自前の薬を届けた帰り道だった。妖の隠れ家の道中に他の家があるはずもなく、水を求めることが出来ないのだ。
 届け先が近場だからと、散歩を兼ねて歩きでの移動を選んだのは失敗だった。朧車を用意すると言われたのに断っておいてこの始末。自分の脆弱さに嫌気がさすのはこんな時だ。

「水を探してまいります」
「頼む」
「はい。鴆様はここでお待ちください」

 側仕えが走り出す姿を見送り、鴆は手近な木に半身を預けるように凭れかかる。流石に少し疲れを感じていた。
 渡る風に身を晒しながら、瞼を閉じてゆっくりと呼吸を整える。吐血により躰のあちこちが緊張で強張っていたが、呼吸が整うにしたがってそれも解れていった。

「水が要りようかい?」

 不意に掛けられた声は、聞き憶えのないもの。閉じていた瞼を持ち上げると、一滴の水が目の前に落ちる。しかし声の主と思われるものの姿はない。

「あたしが水をあげようか」

 同じ声が再び届く。同時に水の雫がもう一度、晴れた空から落ちてきた。

「お前さんは誰だ?」

 見えない相手に訊ねる。このようなことが出来るのは自分と同じ妖だけだ。

「あたしが誰かなんて、どうでもいいことさ。それより、水が欲しいんだろう?」
「水は欲しいが、代償が必要そうだな。オレに水を用意する代わりに、お前さんは何を望むんだ?」

 自己欲の強い妖が、善意だけで他者に手を貸すことはない。話しかけてくる妖も、代償を求めてくるはずだ。一見態度は変えず、内心で警戒を強めた鴆に、低い笑い声が響いた。

「そうさね。身奇麗になったところで、あたしに食われるっていうのはどうだい」

 言うや否や、水の塊と共に長い髪を乱した女がひとり、鴆の凭れかかる木の上に現れる。木の枝で全容は見えないが、どうやら鴆よりも随分と大きな体の持ち主のようだ。
 力比べでは、おそらく勝つことは無さそうだ。だが鴆は慌てることなく女に告げる。

「そいつぁ止めておけ。食ったが最後、オレの毒でお前もあの世行きだぜ」
「そのような出任せを信じると思うかえ?」
「信じなきゃ、お前があの世に行くだけさ。自分の命、賭けてみるか?」

 鴆の悠然とした態度に、女が迷いを見せる。状況からして、鴆の方が慌てるか逃げ出すかすると思っていたのだろう。それが反して余裕の態度で返されたため、疑念が生じたのだ。

「…………毒を持っているのか?」

 妖が改めて問うてくる。鴆は鷹揚に頷いた。

「ああ。オレの毒に勝てる奴は、この世のどこを探したって居ねぇよ」
「なんだい。折角の得物だと思ったのにねぇ」

 言葉に真実を見つけたらしい女は、幾分残念そうに肩を竦める。苦笑交じりにそれを見上げていた鴆は、女の見せる仕草が何処かぎこちないことを感じ取った。

「おい」
「餌にもならない毒持ちのお前さんに用はないよ。気安く話しかけないでおくれ」
「お前、怪我してんじゃねぇのか?」

 その一言に、女が鋭い睨みを向けてくる。どうやら見当違いではないようだ。

「寝ぼけたことを言ってるんじゃないよ。折角見逃してやったっていうのに。食わずにただ殺すことだって出来るんだよ」
「無理をするな。こんなどう見たって病持ちのオレなんかを食おうとしたくらいだ。あんまり身動きが取れないんだろう」

 吐血した血を洗い流していない鴆を見れば、餌の対称にするには不向きだと判る。それを敢えて狙ってきたところからも、この妖が狩猟できる状態にないことを示していた。

「見逃してくれた礼だ。その傷、オレが治療してやる」
「何を言って……」
「信用しな。薬師一派の頭領の名に掛けて、お前を治してやるからよ」
「薬師一派…………ってことは、お前さん……」

 どうやら鴆の正体に気付いたらしい女は、息を呑んで見下ろしてくる。

「こんな状態じゃ、オレはそこまで上がってやれねぇんだ。降りてきてくんな」

 再度促せば、女はずるりと木の幹を伝って鴆の許まで降りてきた。
 鴆が予想したとおり、女の蛇のような腹には大きな傷があった。それを見分し、鴆は脇に置いていた風呂敷包みに手を伸ばそうとした。

「お待ちよ」

 それを止めたのは妖だ。振り返れば、先程よりも随分と小さい水の塊が鴆の前に現れる。

「血まみれの手であたしに触れられちゃあ、こっちが汚れちまうじゃないかい。先ずはそいつを落としてからにしておくれよ」

 ぶっきらぼうな言い方は、何処か照れたもののように響いて。軽く苦笑した鴆は、妖の好意を受け取ることにした。
 血を洗い流し、女の傷を手当てする。広範囲の怪我ではあったが、鴆の薬と腕に掛かれば、完治に一週間と要しないだろう。

「これでよし。念のために、予備の薬も渡してくから、痛むようなら使ってくれ」

 女は無言で薬を受け取ると、巨体を大地に這わせてゆっくりと去っていく。鴆は木に凭れながら、それを見送った。
 妖の姿が消えて間もなく、鴆の側仕えが大きな葉を桶代わりに水を手にして戻ってきた。そしてすっかり血を洗い落としていた鴆を見て、驚きに目を丸くしたのだった。
 春も終わりを告げる、そんな日の出来事。







**********






夏の日差しの中、リクオが学校から自宅へと戻ってくると、屋敷の中が騒然としていた。見れば屋敷に住まう妖が、廊下を行ったり来たりしている。

「どうしたの、いったい」
「あ、リクオ様、お帰りなさいませ」

 手桶を片手に、廊下を走っていた豆腐小僧が、リクオに気付いて足を止める。

「お出迎えもしませんで、申し訳ありません」
「うん、それは構わないんだけどね。何をみんな騒いでっていうか、慌てているの?」
「はあ、先ほど、鴆様がまた吐血されまして……」

 返ってきた答えに、リクオは眉を顰める。もちろん聞かされた内容に、迷惑を感じたわけではなかった。
 春先、奴良組幹部のひとりである鴆は、腹心である蛇太夫の裏切りにより家を焼失した。鴆本人はリクオが訪ねていたこともあり、無事助け出すことが出来たのだが、行き先を失ってしまった状況におかれたのだ。
 蛇太夫の手によって離されていた鴆の部下は直ぐに呼び戻され、焼けた家も再建に取り掛かった。しかし早々家が建てられるわけもなく、鴆は親しい妖仲間の間を渡って過ごしていた。
 時折、本家にも訪れてくれていたのだが、その度に顔色の優れない彼を見てリクオは気が気でなかった。もとより丈夫な躰を持ち得ないのが、鴆という妖だ。渡り鳥のような生活が、躰に負担を掛けないはずがない。昨日から本家に来ていた鴆は、昨夜も少し血を吐いた。
 挨拶だけに寄ったのだと、直ぐに本家を出ようとした彼を引き止めたのはリクオだ。明らかに体調が優れないだろう鴆を、言われるまま行かせるわけにはいかなかった。
 引き止められた鴆は、どこか申し訳なさそうな様子だった。しかし遠慮される方が、リクオにしたら困るというものだ。
 人として、妖として、そして義兄弟としても、体調が優れないだろう彼を放り出すことは道を踏み外すようなものだ。出来れば本家に留まり、少しでも体調を回復させて欲しかった。
 その鴆が、また吐血したという。明らかにこれまでの状況が良くなかったことを知らしめるかのように。
 鴆を迎え入れた妖たちの待遇が悪かったとは思えない。優秀な薬師である鴆には大概の者たちが世話になっていたし、彼の気性も好感の持てるものだったから、寧ろ懇意にしたいと思うものの方が多いだろう。だから迎え入れた妖たちは、鴆を優遇したはずだ。
 きっと、無理をしたのは鴆自身だ。ひとところに留まろうとせず、引き止める言葉を躱してあちこち移動していたらしい。
 おそらく、何処かの組にだけを懇意にしないでおこうとする、薬師一派の頭領としての采配だったのだろう。薬師としての立場上、どの組にも平等に接するということを示したかったのだ。
 考え方としては間違いではない。しかしそれを行えば、鴆自身に負担が掛かるのは始めから判っていた。
 せめて本家に留まってくれたなら、贔屓だなどと他の妖も文句を付けないだろう。けれど本家にこれ以上の迷惑は掛けられないと考える鴆が、それを拒否してきた。
 始めにもっと強引に引き止めておけば、鴆も無理をしなかったのかもしれない。だが出て行こうとする彼を引き止めなかったのもリクオだった。
 鴆の家が焼け落ちたとき、リクオは今のように自分の中にある妖の血を受け入れていなかった。夜の姿になっている間の記憶もなく、それ故鴆と盃を交わしたことすら、鴉天狗から話を聞かされて知っただけの他人事のようなものだった。
 数年ぶりに逢った鴆に対し、苦手意識が先立っていた頃。そんな時に自分から距離を置こうとした鴆の言葉は、リクオにとってはありがたく響いてしまった。
 それが今、鴆に負担を掛けたという結果を導いている。
 ひとつの季節を終え、いくつかの事柄を経て、リクオは妖である自分も受け入れた。同時に、それまで思い出せなかった記憶も全て取り戻した。当然、鴆と盃を交わした記憶も。
 守ってやると約束したのに。自分は夜明けと共にそれを忘れ、結局鴆に負担を掛けてしまった。守るなどと言うことから程遠い場所に、鴆を追いやってしまった。
 顔色の優れない鴆を見るたびに、沸き起こるのは罪悪感。けれどせめてこれ以上の無理はさせたくないと、胸が痛むのを押し隠して昨夜は鴆を引き止めた。
 引き止めては見たものの、当然ながら一晩で体調が回復するはずもない。吐血騒ぎがそれを証明するかのようだ。だからリクオが零したため息は、己の言動に対する悔恨からくるものだった。

「鴆君は客間にいるの?」
「はい」
「じゃ、悪いけどボクの鞄を部屋に持っていってくれるかな。あと、その桶を貸して」

 持っていた通学鞄を無理矢理豆腐小僧に押し付け、代わりに彼の手から手桶を奪い取る。慌てた様子の妖をその場に置いて、リクオは玄関から直接客間へと足を向けた。





……本編に続く




【 戻 】