日々姿を変える月。けれど繰り返されるその姿が実は何年・何十年・何百年経っても変わらないと知ったのはいつのことだったか。
 見上げた空にあるのは三日月。弓なりの姿は細い光を放つ。四十年前のあの晩と同じように。
 サク……
 かすかに草を折る音が届く。背後には馴染んだ気配。振り返らずとも、誰が居るのかは判っていた。

「……おひとりで居る方が、良いかとは思ったのですが」

 遠慮がちに掛かる声。言葉と裏腹に、立ち去る様子は感じられない。
 ゆっくりと肩越しに振り返る。そこには恭しい態度で片膝を付く、お目付け役が居る。一本の酒を手に。

「―――気が利くのう、カラスよ。弔い酒か」
「はい。ぬらりひょん様は、何も持たずに出かけられたご様子でしたので」
「直ぐに、帰るつもりじゃったんだがな」
「どうぞ、お気の済むままに過ごされてくだされ。今宵はみな、総大将のお手を煩わすことはいたしませんゆえ」

 どうぞ、と差し出される酒瓶を、握る鴉天狗の手ごと掴み取る。

「ワシひとりで、寂しく呑めと申すか?」
「おひとりではございますまい。姫が……珱姫殿が居られるではないですか」
「その珱姫を送るための酒じゃろう。呑み終わった時にはワシひとりじゃ」

 人の人生が短く儚いと判っていた。だから今夜の別れも、とうの昔に覚悟していたものだ。
 けれど寂しいと思う気持ちは、どうしたって起こる。覚悟と生まれる感情は別物なのだと、改めて思う。

「カラスよ、それでもワシをひとり残して立ち去るか?」
「拙者が立ちおうてもよろしいのであれば、主の望むままに」

 風が渡る草原に、無造作に腰を下ろす。鴉天狗の手は掴んだまま。それが答えだ。
 ぬらりひょんに並んで、鴉天狗も腰を下ろす。ふたりのちょうど中央に、酒瓶は置かれた。

「総大将がおひとりで過ごされると思いましたので、杯はひとつしかございませんが」
「変なところで気がきかんヤツだ。まあ、ひとつあれば充分じゃ」

 差し出された杯を受け取る。朱塗りのそれに、色のない液体が注がれた。
 中身を一気に煽る。元々酒には強いのだが、今宵は特に酔いそうにはない。
 続けて注がれそうになるのを制し、杯を鴉天狗へ返した。

「お前も弔ってやれ」
「はい」
 そのままふたり、静かに酒を飲み交わす。互いの胸中にはきっと、同じ人物が浮んでいるはずだ。

「珱姫は……」

 紡いだ言葉は、無意識に上ったものだ。だが止めようとは思わなかった。
 そして聞かされる鴉天狗も、止めようとはしなかった。

「珱姫は……」










******










 京の都での大立ち回り。興奮が冷め遣らぬまま、江戸の地を踏んだ。

「珱姫、疲れてはおらんか?」
「はい、大丈夫です、妖様」

 道中朧車に乗せていたとは言え、自分の屋敷から殆ど出たことのない珱姫に、京都から江戸への旅は堪えたはず。けれど気丈にも、彼女は苦情を申し立ててはこなかった。

「このお屋敷は?」
「ここがワシら奴良組の本拠地じゃ。どうじゃ、結構いい屋敷じゃろ?」

 珱姫が居た屋敷ほどは大きくないが、それでもこの界隈ではかなりの広さを誇っている。大きくないと、配下の妖たちが納まらないためだ。

「これからはあんたもここで暮らすことになる。珱姫には好きな部屋を与えてやるぞ。何処がいい? 池の辺の部屋か? 桜の側の部屋もある」
「あ、私はどこでも……」
「ん? そうか? ああ、ワシと夫婦になるんじゃから、ワシの部屋でも良いのか」
「え!」

 夫婦の一言で、途端に頬を赤く染める珱姫が愛おしくてならない。腕の中で落ち着きをなくす姫を、ぬらりひょんは気持ちが現れるままに抱きしめた。

「希望を言わねば、ワシの部屋じゃ。どうする、珱姫」
「あ、あの……私は……」

 おろおろとする姫をひとしきり堪能し、奴良組総大将は腕の囲いを解いた。

「どんな部屋があるか判らんじゃ、選びようもないか。珱姫、屋敷の中を廻って見るといい」
「ありがとうございます、妖様」
「豆腐小僧、案内してやれ」
「畏まりました。珱姫、こちらへどうぞ」

 豆腐小僧に連れられて、珱姫が屋敷の奥へと移動していく。見送ったぬらりひょんは、一足先に自室へと向かった。

「総大将、留守の間の報告に上がりました」
「おう、カラスか。お前も帰ったばかりじゃというのに真面目じゃのう」
「総大将が不真面目だから、真面目にならねばならんのです」

 鴉天狗の物言いに、ぬらりひょんは咽喉の奥で笑う。百鬼を率いる妖の総大将に向かって、まったく物怖じしない口調が心地よい。

「お前が真面目で居てくれるから、わしが不真面目でも問題ないんじゃろ」
「問題ありです! 少しは気を使ってください!」

 声高に苦情を言う姿にもう一度笑い、ぬらりひょんはどかりと腰を下ろす。これ以上は言っても無駄と悟っているのか、鴉天狗も小言を収めて向かい合う位置に腰を下ろしてきた。
 名の通り、漆黒の羽に覆われた姿。艶やかな漆黒は、闇に生きるものに相応しく美しい。この色を気に入っているぬらりひょんであったが、今は不満が湧き出てくる。

「カラスよ」
「は、何でしょうか」

 読み上げていた報告事項を区切り、呼び掛けに応じてくる。腹心の部下であり、奴良組のお目付け役でもある鴉天狗を、ぬらりひょんは目を眇めて見やった。

「どうかなさいましたか?」

 主の不機嫌さを感じ取ったのか、幾分戸惑いの色が問いかけてくる声に混じる。だが不機嫌にさせた理由にまでは思い至った様子はない。

「ぬらりひょん様?」
「……おぬし、ワシとの約束を忘れておるのか?」
「は?」

 羽の色と同じ黒い目が、忙しく瞬きを繰り返す。きっと脳裏では「約束」が何であったのかを考えているのだろう。
 鴉天狗が答えを出す間、ぬらりひょんはじっと彼を見据える。だが何時まで経っても答えを出してくれない男に、盛大なため息を零すことになった。

「本気で忘れておるとは……ワシも軽く見られたもんじゃのう」
「も、申し訳ございません!」

 深く頭を下げる鴉天狗の下へ、畳の上を滑るようにして立ち上がらないまま近寄る。そして床に伏した頭へ両手を伸ばし、頬を挟むようにして持ち上げた。

「総大将?」
「カラスよ、以前言うておいたろう。ワシとふたりだけで居るときは人型を見せていろ、とな」
「はて、そのようなお約束を交わした憶えは、拙者にございませんが……」
「いーや、確かにワシは言うたぞ。何でそれを憶えてないなどと……」

 酷いではないか。そう言いかけてふと、その約束を交わした状況が思い浮かぶ。自らが言い出したことなので、内容ははっきりと憶えているのは当たり前だったが、それを言ったときの状況までは思い出せていなかったのである。

『ああ、そうか。そうじゃった』

 状況を思い出した途端、口の端が持ち上がる。約束は、鴉天狗がわざと忘れたわけではなく、憶えていられる状況ではなかったのだ。

「そうか、おぬしは憶えていられんかったかもしれんのう」
「総大将……あの……」

 困惑する鴉天狗の顔を、頬に手を添えたままで覗き込む。互いの吐息が肌をくすぐる距離に、手の中の男は落ち着きをなくしていく。

「ワシがその約束を口にしたのは、おぬしに包まれていた時じゃった」

 色事の最中、そう暗に告げれば、黒い顔にほんのりと赤みが差す。人と同じ肌の色であったなら、きっと真っ赤かに熟れていただろう。地色が黒だから目立たないだけだ。
 鴉天狗の反応に、ぬらりひょんは気分が良くなっていく。同時に持ち前の悪戯好きの気性が刺激された。

「状況を再現すれば、おぬしも思い出すか?」

 頬に添えていた片方の手を、腰に廻して引き寄せる。ほぼ同時に自らの上体を前に倒せば、かかる重みでふたつの躰が畳みに伏した。

「総大将!」
「照れるな、カラス。今更だろうに」

 腕の中で抵抗を始められたが、押さえつけることは容易い。つやのある羽に唇を乗せると、ビクリと震える様が更に劣情を煽った。




……本編に続く




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