若葉の芽吹く季節。周りを多くの自然に囲まれた薬鴆堂では、命が眩く感じる季節だ。庭に立ち、奥に続く山を見上げた鴆は、太陽が照らし出す自分の髪の色に近い緑に染まった風景を前に、季節の移り変わりを如実に感じ取った。 「すっかり春になったな」 近頃は気候も不安定と言われる折り、四季も判りづらくなっていると囁かれている。だがやはり新しい命がこうして芽生えるのを見れば、春が来たと思うのだ。 「こちらに居られましたか、鴆様」 「番頭か。どうした?」 自分を捜していたと判る声に振り返れば、縁側には見慣れた蛙の顔。鴆が予想外に仕出かすことに怒ったり、管理不足で体調を崩す鴆を心配したりと、元が両生類にしてはずいぶんと表情が豊かな蛙だ。今日の表情は落ち着いた感じのもので、これはきっと鴆が彼の気を揉むようなことを今日は何もしていないからに違いなかった。 穏やかな表情の番頭は、口調も表情と同じく穏やかに告げてくる。鴆に来客があった、と。 「来客?」 「はい」 薬師の鴆に診てほしい者が来たなら、患者と言っているだろう。奴良組の幹部たちならその名を告げる。そして薬鴆堂に近頃もっとも頻繁に訪れる鴆の義兄弟なら、総大将がみえられたと言うはずだ。 しかし今日の言い方はどれにも当てはまらない。首を傾げた鴆に、番頭は更に告げてきた。 「鎮間(しづま)の翁と告げていただければ通じるとおっしゃっておりましたが……」 「ああ、あのじいさんか!」 番頭には、此度の来訪者に心当たりはなかったのだろう。おずおずと告げてきた名は、鴆にとっては馴染みのある妖の名だった。 「鴆様のお知り合いで?」 「おう。薬師一派の界隈に住みついている妖のじいさんだ。オレのじい様が、この地をぬらりひょん様から与えられる前から住みついていたっていう年寄りだ」 「左様でしたか」 鴆を訪ねてくる者たちのうち、鴆と面識を持つものは意外と少ない。患者として運び込まれるときもそうだが、個人的に訪ねてくることでもまったく見知らぬ者が足を運んでくることが多いのである。 薬師としての腕前を見込んで、自分の陣営に取り込もうとする輩。或いは鴆の毒を欲する輩。最近では奴良組現総大将の唯一の義兄弟であるという立場に取り入ろうとする輩なんかも増えている。 そういうものたちが後を絶たないため、番頭は来客があっても直ぐに鴆へ取り次ごうとはしない。先ずはこうして、相手の身元を鴆自身に尋ねてくるのである。 今回訪ねてきたのは、古くからこの地に住みつく妖だ。番頭も薬師一派に名を連ねるものだが、何分まだそう長い歳月は経っていないし、基本的に薬鴆堂の切り盛りだけで手一杯だ。薬師一派が束ねる界隈に住みついている妖の顔までは、把握出来ていなくても無理はなかった。 「ではお会いになられますか?」 「ああ、通してくれ」 「客間にご案内しておきます。鴆様もお仕度をお願いします」 直ぐに踵を返した番頭を見やってから、鴆も来客を向かえる仕度を整えるため、屋敷の中に取って返す。庭に下りた際、植えてあった薬草の世話をしていたために手先はもちろん、服のあちこちに土埃がついているのだ。客を迎えるには、これらを何とかしなくてはならなかった。 丁重に指先を洗い、着物は着替えることにする。多少払った程度では、全ての埃を落とすのは無理だと判断したためだ。 一通り身支度を済ませて、客間に向かう。部屋の中には懐かしい顔があった。 「久しぶりだな、鎮間の翁」 「お久しぶりにございます、鴆様。恙無きご様子、この翁、安心しました」 「そう簡単に倒れてられるかよ」 我が子というより孫同然に自分を可愛がってくれる妖が、鴆を見て目を細める。彼の顔に刻まれた皺は、長い年月を感じさせるに相応しいものだ。 生来丈夫とは言いがたい躰を持つ鴆だが、だからと言って過剰に気遣われるのは本意ではない。だが純粋な善意にまで爪を立てるのは、大人気ない行為だろう。ましてこのような、孫子に向ける慈愛に対しては尚更だ。 鴆の軽口に目の前の好々爺が破顔する。するとより一層皺が深くなり、好感度が増していった。 「今日はどうしたんだい? こんな昼間から出歩くんじゃ、オレなんかより翁の方が体力を使っちまうだろうに」 「恒例のお届けものでございます」 「もうそんな時期だったか」 鎮間の翁の届け物。それは彼の住む地に生息する薬草だ。数年に一度、それらは翁の手で摘み取られて、薬鴆堂に納められるのである。 薬鴆堂の取り扱う薬の原料は、様々な経路で入手される。薬草を育てて捌くことを専門にしている妖からも納めてもらっているし、薬鴆堂の敷地内で栽培するものもある。鴆自身が生息地に足を運び、採取するものもあった。 鎮間の翁の薬草も、薬師一派の納める地であるから、鴆が採取に赴くのであっても本来は構わないはずだ。けれどそれは出来ない事情があった。 鎮間の翁は、小さな池の辺に住みついている。池の水は磨かれた鏡のように澄み、風が吹いても波紋ひとつ浮かび上がらない。正に鎮間の名の通り、一切の音を遮断したような空間だった。 その場を作っているのが、目の前の妖だ。彼は一定の領域を持つ妖の類で、自らの領域の中では絶大な力を誇るのだ。 彼の領域に入れば、どんな妖であっても彼の持つ畏に呑み込まれる。その為、鴆が翁の領域にある薬草を手にすることは出来ないのである。 希少な薬草もある場所だけに、手出しが出来ないのも困る。そこで鴆の祖父と鎮間の翁の間で約束を交わしたのだ。数年に一度、翁の手で薬草を納めるということを。 「どうぞお納め下さい、頭首殿」 翁はふたりの間にあった卓袱台を避けるように廻りこみ、鴆の前に風呂敷包みを差し出す。顔同様、皺の刻まれた手が風呂敷の結び目を解けば、中から籠に入った薬草が納められていた。 「いつもありがとうよ、翁。こんなにたくさん摘むのも大変だったろう?」 「なんの。暇な爺の、これはよい暇潰しです」 「そうか」 ありがたく薬草を受け取り、家臣を呼ぶ。直ぐに薬とする作業に取り組ませるためだ。 摘み取ってから薬にするまでの時間が開くほど、薬効が薄れていくものも多い。貴重な原料を少しも無駄にするわけにはいかないから、時間を置きたくはなかった。 鴆の薬に関する教えを受けた家臣が、客間に顔を見せる。鴆は籠ごと薬草をその者に手渡した。 「やり方は判るな?」 「はい。お任せ下さい」 数年毎とはいえ、既に何度も同じ薬草を扱っている。彼の者は先代の鴆がいたときから薬師の補助として学んできたものだ。今更一から説明しなくとも間違うことはないと言えた。 力強く頷き、籠を丁重に抱えて下がっていく。入れ替わるように番頭が客間に顔を出してきた。 どうしたのか。そう思ったのは一瞬だ。鴆は番頭が用向きを口にする前に、彼が現れた理由を察知した。 鴆の過敏すぎるくらいの感知能力が、馴染みの気配を感じ取っている。どうやら奴良組総大将が薬鴆堂を訪ったようだ。 「鴆様、総大将がお見えになられましたが……」 リクオが訪れるのはいつも突然だ。先触れを出す手間を、義兄弟は掛けてくれない。訪い自体が頻繁だから、どうやら面倒に感じているようだった。 鴆に時間の余裕があるときは、突然の来訪でも歓迎したい。だが今日のように先客がある場合、少々困ると思う。 主であるリクオを待たせるなど、僕がして良いわけがない。だからといって、先に訪れた者を蔑ろにも出来ようはずがない。番頭もどういたしましょうかという表情だ。 「オレの部屋に案内しておいてくれ」 心苦しいが、主には多少待ってもらうしかない。ところが第三の選択が、先客から齎されることになった。 「総大将と言うのは、新たに奴良組を継がれたという三代目ですかな?」 「ああ、そうだ。翁はまだ会ったことがないか」 「はい。私は自分の領域から滅多に出ることはしません故」 領域を持つ妖であれば、それも道理である。今日薬鴆堂を訪れていることが異例なのだ。 「出来れば、私も一度ご挨拶をさせていただきたいかと」 同席を求められる。鎮間の翁に対する信頼は充分にあり、鴆に否はなかった。 「そうか。じゃあ翁が挨拶したいってのをリクオに伝えてくるから……」 暫し待っていてくれないか。そう続けられる筈の言葉は、もうひとりの当事者によって遮られた。 「ボクならもうここに来ているよ」 開かれたままの障子の隙間から、まだ幾分幼さが抜け切れない顔が覗きこんでくる。どうやら店頭で大人しく待つということをしなかったようだ。どうりで気配がやたら近くに感じられた訳だ。 「リクオ、お前なぁ……」 主とは言え、いくらなんでもこれは無作法だと咎める必要があるだろう。少しきつめに睨めば、少年の肩が竦められた。 「ごめんね、鴆くん。番頭さんに無理を言ったのはボクだから」 「そんなのは判っていらぁ」 やたらと口喧しい番頭が、こんな無作法をするわけがない。端からリクオのゴリ押しの結果だということは判っている。 「いくら総大将でも、これは無作法すぎるぞ」 鴆だけに対してなら無作法も目を瞑ってやれる。だが第三者の目が在る場所では容赦出来ない。許してしまえば、下がるのはリクオ自身の評価なのだから。 「どうやら二代目のお話にあったように、やんちゃ振りがあるようですな、三代目は」 「翁……」 「二代目って、お父さんのこと知っているの?」 挨拶も飛ばして会話に加わってくる少年に、鴆の眉間の皺が深くなる。それを見とめた老齢の妖は、可笑しそうに笑ってから居住まいを正した。 「お初にお目にかかります、奴良組三代目。私は鎮間の翁と呼ばれる者にございます」 「あ、奴良リクオです」 丁重に伏す妖を前に、リクオも慌てて居住まいを正す。流石に自分の無作法を恥じたのか、丸みの残る頬がほんのりと薄紅色に染まった。 「初代ぬらりひょん様がこの地に組を構える以前より、私はこの界隈に根を下しております。初代・二代目共にこの地に留まることを許可していただいておりました」 「そうなんだ」 「はい。初代が鴆一族にこの地を治めるよう託けされたときより、私も薬師一派に名を連ねさせていただいております。もっとも、私は薬師としての腕を持ち合わせてはおりませんが」 「薬師としての働きはなくても、貴重な薬草は用意してくれている。翁は薬師一派の立派な一員だ」 薬師の仕事は薬を作るだけではない。この老齢な妖が持つ領域が、希少な薬草を守り育ててくれているのである。 「うん。そうみたいだね。えっと、これからもよろしくね、翁」 「では、このままこの地に留まることを許可いただけるということですかな」 「もちろんだよ」 「寛容なお心遣い、ありがとうございます」 翁は伏していた顔を上げると、視線をついっと鴆に流してくる。 「鴆様、本日はこれにてお暇させていただきます」 「え、もう帰るのか?」 「はい。日中はやはりこの老体には厳しいようですから」 暇を請う理由は尤もらしいものだが、それだけではないことなど向けられた視線より容易に知れる。リクオが登場したことで、彼は予定を繰り上げることにしたのだ。 久しぶりに逢う相手だ。積もる話もあるのだが、時間の確保は難しいだろう。鴆にとっての優先順位は、例え頻繁に逢えるとしてもリクオが一番になってしまうのだから。 ゆっくりと構ってやれないのであれば、引き止めるほうが申し訳ない。そう判断した鴆は頷くよりなかった。 「また今度、ゆっくりと話を聞かせてくれ、翁」 「そうしましょうか、近いうちに」 鴆の提案に頷きを返した妖は、今一度リクオに向き直った。 「では三代目、これにて失礼させていただきます」 「気をつけて帰ってね。今日はご苦労様」 「はい、ありがとうございます」 常に見せる穏やかな翁の表情に、その時鴆はふと引っかかりを覚える。けれど原因は掴めず、屋敷を辞する背中を見つめるだけだった。 ……本編に続く
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