可愛いとか、いじらしいとか。
 この手の形容詞は、女子供に使われるのが通例だろう。それなのに、リクオは最近この手の言葉を男に、それも成人をとうに越えた青年に使っている。
 同じくらい女子供に対して使っているなら、まだ救いはあるように思えるが、最近の記憶を掘り返してみてもそんな言葉は使っていない。向けるのはただひとり、己の義兄弟に対してだけだった。
 今日もまた、気付けばそんな言葉を向けていた。意識してのことではなく、想いのままに言葉を綴っていたら可愛いと言っていた。そんな感じだ。
 けれどその手の言葉を受けて嬉しがるのもまた、女子供が大半だ。当然ながらリクオの義兄弟も嬉しがったりはしなかった。
 秀麗と表するに値する、リクオとは異なった趣で整った顔がしかめられる。嫌がっているのがありありと判る表情だ。

「そんな顔を見せなくたっていいじゃねぇか」

 リクオとしては、賞賛として口にした言葉。けれど向けられた青年は明らかに拒絶した様子だ。想いがまるで伝わっていない感じがして、リクオの方も不快感が煽られる。

「誉めてんだぞ、お前を」
「それのどこが誉め言葉だ。成人を越えた男に対してじゃ、雑言にしか聞こえねぇよ」
「幾つだろうと、男だろうと、可愛いと思うもんは可愛いんだよ」
「また言いやがったな! しかも二回も!」

 互いに一言発する度に、頭に血が上っていく。毒を持つ妖鳥は顔をしかめるだけに止まらず、それまでの立ち膝の体勢から仁王立ちに変わっていた。
 リクオは座ったままだから、見下ろされる姿勢になっている。それがまた腹立たしい。
 ほんの少し前、そう「可愛い」と口にする直前までは、いい雰囲気だったはずだ。ふたりの間にあった空気は甘く、絡む視線は互いを求めていた。
 それなのに。
 たった一言が空気を変えた。甘さは消え去り、取って代わったのは刺々しさだ。求め合っていた視線は睨み合いになっている。
 リクオの中で、止めろという声が上がっている。喧嘩をしたいわけじゃないだろうと。それは感情を抑える理性の声か。或いは昼の姿での自分の声か。
 喧嘩をしたいわけじゃない。怒っているリクオだってそう思う。義兄弟とふたりきりで過ごす時間は互いの忙しさや事情から確保するのが難しいのだ。今日のこの時間だって、実に二週間ぶりだった。
 期待していた時間。待ち望んだ逢瀬。それなのにどうして自分たちは今、睨み合いをしているのだろう。
 ここでリクオに一歩引く勇気があったなら。或いは見下ろしてくる義兄弟にリクオの一言を受け止める寛容さがあったなら。結果は違ったものになっただろう。けれど睨み合いの状況から発展したものは決まりきった展開であり、きっと互いに望まない形だった。

「いくらだって言ってやる。そんでもって、テメェも自分が可愛いってことを自覚しろ」
「するか、そんなもん! それよりお前の目が腐っていることを自覚しろ!」
「主の目が腐っているたぁ、聞き捨ておけねぇ言い草だな」
「自覚を促してやるのも僕の務めだぜ」

 当然のことをしたまでだ。鷹揚なまでの態度に、益々頭に血が上る。熱は冷めるどころか、上昇する一方だ。遂にはリクオもじっとはしていられずに立ち上がり、正面から睨み合った。
 視線の間に火花が散る。きっとこの場に誰かいたらそう言うに違いないような睨み合い。リクオは決して手を抜いてなどいなかったが、義兄弟もまた視線を逸らしたりはしなかった。
 何処までも意固地な素直になってくれない妖鳥に、先ほどまで溢れていた愛しさが忌々しさに変わっていく。あんなにも愛しいと感じていたはずなのに。
 いや、愛しいと感じていたからこそ、応じてくれない相手に苛立つのかもしれない。苛立ちで大きく波打つ感情の端で、妙に冷静な部分がリクオのうちにあった。
 しかし冷静さを保てたのはその部分だけだ。感情の殆どは落ち着かせることなど出来なかった。

「―――不愉快だ」
「そうかよ。オレだって不愉快だぜ。先にそうさせたのはリクオだろ」

 可愛いと言ったリクオのせいだ。義兄弟がそう責めるのにまた苛立つ。
 もう今夜は、この波打った感情を抑えることは叶わないだろう。どこまでいっても、ふたりの感情に折り合いなど見つけられないに決まっている。
 それでも、リクオの中で僅かに残っていた冷静な部分が、実力行使に出ることだけは引き止める。感情はぶつけても、暴力を振るうことだけは止められた。

「帰る」

 短くそれだけを告げ、もぎ取るように絡んできた視線を引き剥がす。そのまま足音高く障子戸に近付き、バンと派手な音を立ててそれを開いた。
 気配を悟らせないのがぬらりひょんの特性。普段の自分であれば、こんな無作法な音を立てることはない。けれど苛立ちをぶつける先を欲していたリクオは、目に付いた障子にそれを向けたのだ。
 出て行くリクオに、掛かる言葉はない。背中に視線が投げられるだけだ。
 義兄弟の向ける視線に気付いていながら、一度も振り返らずに縁側から庭へと降り立つ。主の姿を見て、庭の隅で寛いでいた蛇女が慌てて飛び寄ってきた。
 無言のままひらりと、蛇女の頭に飛び乗る。普段と様子が違うのは、一目で判ったのだろう。どうしてよいのか判らない様子の蛇女は、リクオを乗せたままその場を動かなかった。

「本家に向かえ」

 短くそれだけを告げる。何か言いたげの様子を示した蛇女は、結局は何も言わずに上昇を開始した。
 だんだんと地上が遠ざかる。垂直に上昇していた蛇女がピタリと動きを止め、次いで本家へと移動を始めた。
 ずっと、義兄弟の視線を感じていた。けれどリクオは一度もそれを見返さなかった。やがて背後にあったはずの屋敷は豆粒ほどにも見えなくなり、そこで漸くリクオは詰めていた息を吐き出すことが出来た。
 この息は何のためのものなのか。
 義兄弟への苛立ちか。それとも最後まで振り返らなかった自分へのものか。
 そっと肩越しに背後を見やる。当然ながら義兄弟の姿はもとより、薬鴆堂すらもう見えない。胸中で安堵ともどかしさが入り混じった。
 リクオが振り返らなかったのは、苛立っていたからだけではない。睨み合った視線を一方的に引き剥がしたとき、視界の隅に掠めた妖鳥の表情が胸を突いたからだ。
 泣きそうだと思った。
 自分と同様、直前までは怒っていた義兄弟。けれど引き剥がしたあの瞬間に見えたのは、まるで違った表情だった。
 確かめるのが怖くて、振り返らなかった。いや、振り返れなかった。
 振り返って、妖鳥がまだ怒った顔だったら今度こそ実力行使に出てしまっただろう。もしも本当に泣きそうな顔だったら、それを作った自分を許せなくなっただろう。どちらも選べなかったら、リクオは最後まで振り返れなかった。

「傷つけたいわけじゃねぇのにな」

 ひとりになれば、途端に熱が冷める。あれほどに怒りを覚えた相手をまた抱きしめたくなる。けれど今夜はもう、その望みは叶わない。
 もう少し素直になれたら。
 そう思うのは、義兄弟の態度に対してか。それとも自分の心に対してか。
 眠れない夜になりそうだ。前髪をかき上げ、空に流れる星を見上げた。








……本編に続く




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