大きく広げた翼が、空を渡る気流に乗る。星の生み出す偉大な風の力により、羽ばたかないままふわりと躰が浮かぶ。
 独特の浮遊感。
 かつては幾度となく体感したそれと、似ているような感覚が鴆の意識を刺激する。気がつけば、見慣れた天井を見上げている己が居た。
 区切られた室内で飛ぶはずはない。そして直前まで、己が何をしていたのかの記憶もない。
 ゆっくりと瞼を閉じ、また開く。瞼を閉じる前と同じ天井が見えることで、ここが現実の世界であることを認識する。同時に、自分が眠っていたことを認識した。
 眠りの縁から現実へ。意識を取り戻す瞬間と、空を飛んだときに覚えた浮遊感を、どうやら類似したものと思ったようだ。
 ほう、と細く長い息が無意識に零れる。現状を捉えることの出来た安堵からか、空を飛ぶことが出来ていなかった惜しさからか。どちらとも鴆には言えなかった。
 真上を向いていた首を、ほんの少し傾ける。欄間から差し込む光はなく、未だ時刻は夜の域を超えていないことを告げていた。
 もう少し眠ろうか。そんなことを頭の隅で考えながら、そもそも自分はいつ眠りについたのだろうという疑問も沸き起こる。眠りに就いたときの記憶が抜けているのだ。
 目覚めからして唐突だったために、記憶が少しばかり混乱している。筋道を立てて思い出そうと、鴆ははっきりと思い出せる夕方辺りの記憶から再生していった。

『珍しく、患者の少ない日だったか』

 大怪我や大病で運び込まれて来る患者が、そうそうあるわけではないが、小さな怪我や多少の体調不良を訴える患者はそれなりに多い。薬鴆堂には、常に患者の姿が見えるのが普通だ。しかし夕刻は珍しく、患者の姿が途切れていた。
 大病や大怪我でないときは、鴆自身が診療に当たることはあまりない。自分の体力が細かい診療まで全てに立ち会えるだけあるとは言えないし、薬師一派に名を連ねる妖たちの修行の意味もあって、指示は出しても手出しをしないことが常だった。
 患者がなければ指示すら必要ではない。鴆はいつもよりも早くに自室へと引き上げたはずだ。
 思いがけず早くに薬師の役目から解放され、いつもよりもゆっくりと風呂を使った記憶がある。そうして躰の芯から温まった躰を、自室に持ち帰ったはずだ。

『ああ、そうか―――』

 リクオ。
 鴆の唇が、若き主の名を綴る。誰も居なかったはずの自室に、義兄弟の姿があったのだ。
 ふらりと、気が向いたときに彼は訪れる。それでも、鴆が久しいという言葉を紡がない程度の間隔しか置かない訪問数だ。そして当たり前のように、鴆の部屋で寛ぐのだ。
 それから酒を酌み交わし、四方山話を交えて。気付いた時には、すっかりと逞しくなった腕の中に捉えられていた。
 リクオとは義兄弟の盃を交わした仲だ。今もそれは変わらず、鴆の誇りでもある。けれど義兄弟以上の係わりも、今のふたりには存在した。情を交わす係わりだ。
 リクオが求め、鴆が応えた。この新しい係わりが増えてからそれなりの時間が経過している。その間こうしてリクオの腕に捉われたことも、もう両手の指では収まらない回数になっていた。
 だが幾度経験しようと、年下の相手に翻弄される甘い時間に、未だ鴆は慣れないでいる。行為も気持ちも振り回される一方で、途中で意識を失ってしまうこともしばしばだった。
 今夜も、途中からの記憶が辿れない。きっとどこかでまた意識を飛ばしてしまったのだろう。たとえ鮮明に憶えていたとしても羞恥を煽るだけなので、寧ろこのことに関してだけは思い出せない方が良いように思えた。
 少しだけ傾けていた首を、今度は反対側へ大きく傾ける。そこには闇と、ほんのりと白く浮かぶ布団の端があるだけだった。

『……帰ったのか?』

 枕を並べた相手の姿が見当たらない。ふらりと訪れる若き主は、朝日が昇るときまで居るときもあれば、闇に紛れて帰るときもある。昨夜はいつ帰るのか訊ねなかったと、ここに来て思い当たった。
 だるさの残る躰を、両腕を使って持ち上げる。渇きを覚えた咽喉に水を求めたが、生憎いつもなら枕元に置かれている水差しが何処にも見当たらなかった。
 無いと思うと、余計に渇きを覚える。我慢は出来そうにないと判断した鴆は、下肢に残る鈍痛に眉を顰めつつ、どうにか床を抜け出した。
 襖を開けた先にあった部屋には、幾らか酒の匂いが残っている。リクオと飲み交わした酒器の類がそのまま残されているからだ。鴆は無人の部屋を横切り、縁側へと続く障子へと手を掛けた。
 少しの力を込めただけで、手入れの行き届いた戸はするりと移動する。雨の気配を感じさせないためか、縁側の雨戸は引かれておらず、下弦の月が弱々しく足元を照らしていた。

「…………リクオ?」

 縁側には、誰の姿もなかった。けれど、鴆はそこに主の存在を感じ取る。

「起きたのか、鴆」

 呼び声に応えるように、誰もいなかった縁側に奴良組三代目の姿が現れる。いや、元からこの男はここに居た。ただそれを鴆の眼が捉えられなかっただけで。

「ここ薬鴆堂で畏を纏う必要はねぇと思うが」
「皆、休んでいる様子だったんでな。起こしたら明日の営業に障りが出るだろ?」
「うちの連中は、そんなにやわじゃねぇよ」

 だが、ありがとうよ。部下の部下にまで気遣いを見せてくれる優しさに、素直に礼を述べる。ほんの少し満足そうに義兄弟は目を細め、次いで肩に腕を廻してきた。

「それにしても、何処に行っていたんだ?」
「ああ、こいつを取りに」

 差し出されたのは硝子製の水差し。鴆の部屋に常備されているものだ。

「喉が渇いてな。オメェも起きたら飲みたくなるだろうと思って取ってきた」

 そんな雑用、それこそ僕たちに任せてほしいものだ。およそ百鬼夜行の主を目指す者のすることではないだろう。幾分呆れつつ、鴆は不相応な事柄を自ら進んで行うことになっても休んでいるものたちに気遣う義兄弟を好ましく思う。

『態々畏まで発動させるってのが、リクオらしいっていうんだろうな』

 微苦笑を浮かべかけ、不意にその表情が強張る。気付いた事実に驚いたからだ。
 リクオは畏を纏っていた。ぬらりひょんの畏は相手に認識させない能力だ。目の前に居たとしても、その姿を感じさせないというもの。
 だが先ほど、鴆はリクオの存在を感じた。姿は確かに見えなかったが、そこにリクオが居ると判ったのだ。
 これまで悪戯好きのリクオが、畏を纏って鴆の部屋を訪れては鴆を驚かすということを何度かしてきたことがある。そのどれも鴆は義兄弟の存在に気付かなかった。
 それなのにどうして今宵、リクオが居ると判ったのだろうか。
 真横にある端整な顔をじっと見つめる。怪訝に思ったらしい奴良組三代目が視線を合わせてきた。

「どうした、鴆」
「今……」
「ん? 今、何だ?」
「今、畏を纏っていたんだよな?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「……いや、なんでもない」

 リクオの気配を感じたのだと、鴆は伝えることをしなかった。
 よく思い返せば、自分はリクオのことを考えていた。そこに偶々リクオが居合わせただけなのかもしれない。偶然が重なっただけだ、と。
 しかしそうやって飲み込んだ言葉を、リクオは諦めてくれなかった。肩に置かれたままだった手を引き、より近距離になった眼を覗き込んでくる。

「なんでもないって顔はしてねぇようだが?」
「気のせいだろ」
「いや、気のせいじゃねぇな。鴆よ、オレに隠し事が通用すると思っているのか?」

 口角を上げる仕草が嫌味なくらいに様になる。いつの間にこんな男前な仕草が身に付いたのか。年下のくせに、と鴆は少々現実逃避の思考に囚われた。
 思考は逃げられても、捕らわれている身は口を割らなければ、開放されそうにない。結局、飲み込んだ言葉を吐き出すことになった。

「お前さんの気配を感じたように思ったんだよ」
「へぇ、すげぇじゃねぇか」
「感心するところかよ! 畏が効いてないかもしれないってことなんだぞ!」
「鴆が相手なら、オレは一向に構わねぇがな」
「突然畏が効かなくなったことを、悩むとかはないのか? オレ自身の能力は変わっていないはずなんだぞ」

 何らかのきっかけでリクオの畏が効かなくなったのであれば、この先自分と同じようにきっかけさえあればリクオの畏を無効化出来るということになりかねない。畏を奪い合う妖にとって、それは致命傷に繋がっていく。
 先ほどのことが偶然であった可能性は高いから、こんな考えは杞憂に終わるとは思う。けれど偶然だと言い切ることも出来ないから、不安が煽られるのだ。
 ところが見破られたはずの当人は、まったく危機感を抱いていない。この場合、大胆と感嘆するよりも、考えが足りないと怒りたくなるのは、仕方がないことだと思う。

「偶然だったんだとは思うが、お前ももう少し考えた方がいい」
「偶然ねぇ」
「違うと言いたそうだな。だが違うっていうなら、そっちの方が問題なんだぞ」
「訊ねるが、偶然じゃなかったとすれば、お前はどんな原因を考える?」
「どんなって……」

 訊ね返されて言葉に詰まる。明確な答えは、鴆の中にもあるわけではないのだ。
 視線がリクオから外れて辺りを彷徨う。答えがそこにあるわけではないが、回答出来ない状況では義兄弟を直視することが出来なかった。
 そんな鴆を、若い主はじっと見つめてくる。視線を向けなくても、彼の視線はそれだけで力を持ってるかのように強かった。
 やがて、視線を逸らせておくことに限界を感じ取る。答えに辿り着けないままに金に輝く瞳を見返せば、向ける表情に確信めいた何かが存在していた。

「リクオよ。オメェもしかして、何か判っているのか?」
「何でそう思う?」
「そういう面見せておいて、思わねぇでいろって方が無理だろ」
「ふ〜ん? だが鴆よ、オレが辿り着けそうな答えは、きっとお前にだって判るだろうよ」
「ああ?」
「考えろよ、鴆。畏を纏っているオレを感じ取ったのはお前だけなんだ。だったら、オレとお前、一緒に居るときに何かあったと中りをつけるのが妥当だろう?」








……本編に続く




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