夜空を赤く染めた炎は既にない。代わって辺りを取り巻くのは炎が出た際に立ち上った煙で出来た霞。月も星も、まだ残る煙に呑まれて、せっかくの晴れた空が台無しにされていた。
 鴆は、母屋があったはずの場所に踏み入れる。足元で炭と化した木片が踏まれて砕け、乾いた音を発した。
 この地に薬鴆堂の看板を立ててから、長い歳月が流れた。初めは真新しかっただろう看板の木目も、当代の鴆がここを引き継ぐときには既に褐色化し、威厳と重みを伝えるものになっていた。
 看板だけではない。診療場として使っていた板の間だとて、幾多もの患者が横たわったり、薬師たちが右に左にと行き来したりで、歳月をかけなければ出ない艶を発していた。
 白かっただろう壁は、そこで煎じられる薬と香のために独特の色に染まっていた。壁を支える柱だって同様だ。常に綺麗だったのは、張替えが必要な障子紙くらいなものだった。
 使い込まれた道具も。薬鴆堂を利用した妖たちの症状をまとめたたくさんの処方箋も。急患が運び込まれても直ぐ対応出来るように作り置きされた多種の薬も。

 ―――全てが灰。

 積み重ねるには長い年月を必要とするのに、失うのは一瞬だ。こんなにも呆気なく全てを失うことになるとは、考えたこともなかった。
 かろうじて倒れなかった柱の一本に手を伸ばす。焼かれた熱を放出し切れていないそれは、指先に常とは違う温度を伝えてくる。既に火傷を負う程の熱量ではなくなっているはずなのに、触れた指先が痛かった。
 引き戻した手に視線を落とせば、指先は煤のために黒く染まっている。鴆には火傷によって赤く染まるよりも痛烈な色に見えた。
 きゅっと煤を握りこむように拳を固める。今、手の中に握れるのはこの残骸だけだった。
 自分は今まで、この手に何を掴んで来たのだろうか。
 先代より引き継いだ店。一派に名を連ねていた子分。医術と薬に関する膨大な知識。
 それらは確かに鴆の手中にあったもの。だが後継者として半ば義務的に引き継いだものでもある。はたしてそれらの中で、鴆が自ら手を伸ばして掴んだものがあっただろうか。ただ与えられえるままに受け止め、自ら手を伸ばしてはいなかったのではないのか。
 いつまでも差し伸べられない手。待っていても、届けられることのない手。そんなことすらしようとしない、いや思いつきもしない相手に、どうして尽くせるというのだろうか。
 今宵の出来事は自らが招いたことなのだと、今になって判る。
 燃え尽きて。失って。刃を向けられて。漸く判ったこと。
 求められない辛さは、鴆とて身に染みて判っていたことなのに。自分が同じことをしていると気付かなかった。
 その代償が、目の前にある。
 改めて焼け跡を見渡す。自分はこの愚行を認め、そして歩き出さなければいけない。どれ程に胸が痛んでいても。
 月に照らされた焼け跡。見えるのは燃え落ちた煤と、倒れかけた数本の柱。庭にあった薬草畑にも火が移って、そこも焼け野原だ。
 それでも鴆はひとつひとつを見ていく。同じことを繰り返さないためにも、全てを記憶しておく必要があるのだ。
 ふと、庭の一角に濃い影があるのに気付く。見る影もなくなった庭だが、影のある位置に何があったのかくらいは判る。蔵だ。
 無意識に足が動いた。瓦礫に足をとられ、何度も転びそうになる。けれど前へと動く足は止まらなかった。
 近付くほどに大きくなる影。幾分息が乱れ始めた鴆は、消失を免れたものを見上げることが出来た。

「無事だったか……」

 土壁で覆われた、古い蔵。屋敷が燃えたときに飛んできた煤で表面こそ汚れていたが、ここだけは燃え移らなかったようだ。保存を目的とした建物の性質上、火事などにも対処出来るよう火が燃え移りにくい設計だったのだろう。
 蔵の中には先祖の残した品や、あまり使わなくなった医療道具、古い文献等が収まっているはずだ。それらはきっと、薬鴆堂を再開させるための力となる。

「鍵を見つけ出さねぇと……」

 盗難を防止するための南京錠が、しっかりと入り口を守っている。中を確かめるためには、錠を解除する鍵が必要だった。

「おい、へ…………」

 無意識に口へ上ったのは、失われたものの名だ。全てが形にならずに咽喉へ詰まったそれに、鴆は顔を歪ませた。
 もう呼んでも返らぬ存在。探しても見ることの叶わない存在。今更求めることは出来ない存在。
 自分が如何にあの存在に依存していたのか、今なら判る。蔵の鍵の在り処ひとつ、自分は知ろうともしていなかったのだ。
 音にすることの出来なかった名を、息と共に咽喉から吐き出す。息を吐く度に、不甲斐なさも出せればいい。
 気持ちを切り替え、鴆は再び焼けた屋敷へ戻る。鍵のありそうな場所、つまりは側近達が使っていた部屋の辺りに、もしかしたら蔵の鍵が残っているかもしれない。それを探し出すのだ。
 壁や柱という仕切りがなくなっただけで、感覚が狂いそうになる。それでも脳だけでなく躰が覚えた間取りを頼りに、鴆はそれらしい場所を片端から探っていった。
 瓦礫をどけ、煤を払い除け。月明かりしかないところで、小さな鍵を求める。元の在り場所すら不鮮明なものを探すには、あまりに条件が悪かった。
 けれど諦めるなどという気持ちは沸き起こらない。いや、諦めてはならないのだ。
 取り付かれたように、あちこちを探して回る。手はすっかり煤にまみれた。更に瓦礫や焼け崩れた家屋が、細い指に傷を作っていく。それなのに痛みはまったく感じられなかった。
 聞こえていた梟の声は既にない。風が渡る音も既にない。鴆の耳に届くのは、乱れたような呼吸とドクドクと波打つ鼓動だけだ。
 大きな瓦礫が、鴆の行いを遮るように転がっている。持ち上げようにも、己の力では僅かしか動かない。しかし諦めることなど考えもせず、鴆は瓦礫に手を掛ける。煤の黒に血の赤さが混じる手を、不意に掴み取られた。

「何をしているんだ、鴆」

 それまで、外の音は何も聞こえていなかった。自分の手に感じられるのは、瓦礫の硬さだけだった。その鴆に他の感覚を呼び戻す。
 掴まれた手は熱かった。
 耳に届く声は優しかった。
 そして見つめてくる瞳は。

「…………リクオ」

 確かに鴆を映していた。

「こんな瓦礫の中を掘り返して。手が傷だらけじゃねぇか」
「…………」
「探しものがあるのなら、明日ウチのもんにやらせてやる。オメェは少し休め」
「…………」
「どうした、鴆?」

 己が何も応えなかったからか、訝しげに顔を覗きこまれる。視線の高さは記憶にあるものよりずっと近かった。

「リクオ……」

 震えそうになる唇が、唯一絶対の主となる男の名を紡ぐ。掠れそうになったそれに、返るものがあった。

「なんだ、鴆」

 応えと共に、捉われた手が更に強く握りこまれる。熱い血が通う手だ。

「リクオ……」
「うん?」
「リクオ」
「鴆、オレはここに居る。なくなったりしねぇよ」

 手を強く引かれる。逆らうことなど考えもしない自分は、しっかりと相手に肩を抱き込まれ、触れる箇所全てから、自分と異なる熱を感じ取った。
 今、鴆に感じられる、唯一の存在。自分以外の、確かな存在。

「リクオ」

 また名を口にする。もうそれしか言えないかのように。

「鴆」

 呼べば返る声が、鴆を地上へと繋ぎとめた。










 暑く騒がしかった夏が終わりを告げる。京都での大立ち回りが落着すれば、待っていたのはありふれた日常。けれどそれがとても心を落ち着かせるものだと思えるのは、やはり夏の出来事が強烈だったからだろう。
 日常を取り戻したリクオは、日中は学校へ、夜ともなれば市中見回りか義兄弟の元へと通う毎日だ。今宵も酒瓶を片手に薬鴆堂の門を潜った。

「では鴆様、詳細が判り次第、ご報告に上がりますから」
「ああ。忙しいだろうが、早急に頼むぜ。放置しておけることじゃねぇからな、こいつは」
「承知しております」

 門を潜って直ぐ、玄関に向かわずに庭へ廻ったリクオは、障子越しに店主と番頭のやり取りと思われるものを聞く。どちらも急いているような、或いは興奮しているような口調だ。どうしたのだろうと、僅かに眉をひそめる前で、番頭が部屋の中から出てきた。

「わっ! 三代目! 何時からそちらに!」

 鴆の部屋の前に立っていたので、出て来た番頭と視線が重なる。リクオは予期していたことだが、相手にすれば予想外のことだろう。元々大きな目を更に大きく見開いて、慌てた様子で庭に一足飛びで降りてきた。
 まだそれなりに距離はあったのだが、文字通り一足でリクオの足元に跪く。この能力は流石蛙の妖であると言えよう。

「三代目だって? リクオが来ているのか?」

 番頭の声に、部屋の中にいた鴆も反応する。閉じられなかった障子の間に、見慣れた痩身の青年の姿が現れた。

「よう、邪魔するぜ」
「よく来てくれたな。そんな所に立ってないで、入ってくれよ」
「ああ」

 予告なしの訪問にも快く迎えてくれる義兄弟の態度に、笑みが浮かぶ。促されるままに、リクオは敷石に草履を脱いだ。

「土産だ」
「いつもありがとうよ」

 手にしていた酒瓶を鴆に預ける。笑顔で受け取った義兄弟は、そのまま庭に降りていた番頭へと向き直った。

「酒の肴を頼む。杯もな」
「直ぐにご用意いたします」

 一礼し、ぴょこぴょこという擬音が聞こえてきそうな足取りで去っていく番頭を見送ってから、リクオは部屋の持ち主と共に室内に収まる。いつもなら直ぐに腰を落ち着かせるところだが、今日に限っては出来なかった。というのも、珍しいことに鴆の部屋が散らかっていたからだ。
 薬師である鴆は、時に自分の部屋でも薬の調合を行う。そのため、薬に不純物が入らないようにという気遣いから、部屋は常に整頓されていた。
 当然、薬の調合をするときには、薬草や必要な小道具が広げられる。或いは書物の編纂などしていれば、本や資料が散らばることもあった。けれど座るのも難しいほど散らかっているは、やはり珍しいと言えた。

「すまねぇな。直ぐに片付けるから、少し待ってくれるかい?」
「ああ、そりゃあ構わねぇが……」

 この有様はどうしたんだと訊ねる前に、鴆が部屋を片付けだす。はじめは部屋の片隅に立っていたリクオも、どうせだからと手近なところから片付けを手伝った。

「リクオ、お前に片付けなんか……」

 させる訳にいかない、という義兄弟の言を片手で制する。

「ふたりでやった方が早く済むだろ。それに掃除は慣れているしな」







……本編に続く




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