ほんのりと桜色に染まった目元に視線が引き寄せられる。泣くような状況ではないのに、見て取れる瞳は潤んでいるようで。熱を持った状態だからだろうかと、頬に添えている指先に伝わる体温から推察したリクオだ。
 そんな風に自分を見ているなんてきっと考えていない義兄弟は、リクオの見ている前でまた杯を傾ける。透明な液体が形の良い唇の先に流れて消えていくのを間近で見て、コクリと咽喉が鳴るのを自覚した。
 こうして鴆と酒を呑むのも、もう何度目か。リクオにすっかり馴染んだ光景となっているのは確かだ。それほどに繰り返し、そして飽きない行為のひとつだった。
 妖の医者として開業している鴆の元には、不特定多数のものが訪れる。仕事柄、そして当人の体調の面からも中々外出出来ない鴆が世情にそこそこ精通しているのは、訪れる患者達が色々な話を怪我や病と一緒に持ち込むからだ。時にリクオが感心するほど、鴆は話題に富んでいる。
 今夜も思わず笑ってしまうような噂話を肴に、ふたりで杯を傾ける。肴と場を提供する鴆に、リクオは酒を提供したのだ。

「寒くないか?」

 そう言って触れた頬。幾分酔いが廻っていた義兄弟は、常より体温を上げていた。

「ん、大丈夫だぜ」

 くすぐったそうに目を細める仕草は、本性が鳥でありながら猫のようでもある。このまま指先で咽喉を擽れば、ゴロゴロと鳴いてくれそうな雰囲気だ。もっとも実際にやったとしたら、鳴かずに怒鳴るのだろうけれど。
 それでもこんな風に気軽に触れさせてくれるのは、相手が自分だからという自信くらいは持っていいはずだ。この義兄弟、見掛けは線の細い男だが、内面はかなり気が強い乱暴者なのだ。迂闊に手を伸ばそうものなら、間違いなく返り討ちにあうに決まっていた。

「リクオも呑めよ」

 酒瓶を掲げられ、リクオは名残惜しく思いつつも手を離す。そして滑らかな肌の代わりに、硬質な漆塗りの杯を手に取った。
 芳醇な香りの液体が、紅い杯に満たされる。香りに誘われるように、リクオはそれを体内に取り込んだ。液体は喉を滑らかに通り過ぎ、胃の腑をかっと熱くさせる。本家の厨から適当に持ち出してきた酒だが、そこそこの品だった。
 リクオ自身、飲酒の経験は妖怪化が本格化してきたここ数ヶ月しかない。口にした酒の種類はそれほど多くはなく、どれが良い酒なのかはまだよく判っていない。ただ適当に持ち出す酒は、どれも外れてはいないように思えた。
 本家にあるのはいつもこんな品なのか。深く考えずそう思っていたが、実はリクオの与り知らないところで、奴良組三代目の持ち出し専用に用意されている上級の酒であった。主に厨を預かる毛倡妓による気遣いということを、まだリクオは知ることがなかったが。
 口にするに、美味いものであるなら越したことはない。それがより美味いと感じられる状況であるなら、なおのこと良いだろう。心地よい場があってこそ、美味しいものは美味しく感じられるのだ。そういう意味でも、鴆と酌み交わす酒はリクオにとって美味い酒であった。

「ああ、うめぇな」
「そうだろ。こうして美味い酒が呑めるのも、世が安泰だからだぜ」
「安泰、ねぇ」
「そうだろ。浮世絵町が騒がしかったら、オメェ、こんなところで寛いではいられないだろうが」
「ああ、そうかもな」

 闇の世界のこととは言え、浮世絵町を中心に関東一円を纏めている任侠一家・奴良組。そこの三代目を継いだリクオが、シマの騒ぎを放置して寛ぐことなど出来ることではない。これと言った騒ぎがないからこそ、義兄弟の許にも気兼ねなく足を運べるのだ。

「ま、あんまり静が過ぎても、ウチの連中は退屈しちまうんだろうけどな」
「それは本家のやつらだけじゃねぇぞ」
「ああ?」
「オレだって退屈しているんだぜ、三代目」
「おいおい、鴆。何言ってやがるんだ」

 つい今し方までは機嫌の良い表情を見せていた鴆は、いつの間にか半眼開きの状態になってこちらを睨んでいる。表情そのものも不満を顕にしているそれだった。
 ずいっと顔を寄せられ、反射的に上体を後ろに仰け反らせる。躰ごと下がらなかったのは、迫った鴆が手を突いた先でリクオの着物の裾を床に押し付けてしまっていたせいだ。
 自由に動ける鴆よりも、動きを制限されているリクオの方が移動出来る距離は短いわけで。瞬く間に義兄弟の整った顔が視界いっぱいになるほどの距離まで近くなった。

「リクオよぉ」
「な、なんだ?」
「オメー、なんでオレを連れていかねぇんだよ」
「連れて行くって……」
「だ〜か〜ら〜、出入りに決まってるだろうが!」

 文字通り、噛み付かんばかりの勢いだ。すっかり出来上がってしまった様子の鴆は、吐息が頬に感じられるほど間近に詰め寄り、不満をリクオにぶつけてきた。
 上気し薄紅色に染まった肌。潤んだ新緑色の瞳。頬に掛かる微かな吐息。これほどの条件が重なりながら、色気のひとつも感じられない。思わずがっくりと肩を落としかけたリクオだ。

『どうせなら、もっと色っぽい状況で迫って欲しいもんだよなぁ』

 鴆はリクオの大事な義兄弟だ。けれどその関係だけではない。彼はもっともかけがえのない存在なのだ。
 リクオが傍にいてくれと願った者。守りたいと思った者。支えたいと感じた者。何より欲しいと望んだ者。それが鴆だ。
 リクオの想いに、鴆もまた応えてくれている。互いの想いは重なっていて、幼馴染や義兄弟の関係は既に越えていた。
 情を交わした相手に迫っていながら、どうしてこんな雰囲気なのだろう。鴆の見せる色気のない態度に、内心ため息を零さずにいられない。そんなリクオの心情などお構いなしに、鴆はなおも言い募ってくる。

「オレはずっと待っているんだぜ」
「そうだったのか?」
「そうなんだよ! 京での出入り以降、テメー、またオレを出入りに呼びやがらねぇじゃねーか!」

 ずっと待っているのに、と襟を締め上げるように捕らえてくる。込める力の強さは、そのまま鴆の不満の大きさでもあるのだろう。
 確かに、リクオは鴆を出入りに連れて行っていない。京で行ったような、派手な出入りほどのものは流石にないが、浮世絵町に戻ってからも小さな出入りは幾つかあった。そのどれにも、鴆に声は掛けなかった。
 鴆が頼りにならないとは露ほども思っていない。それは京の地で既に学んできたこと。彼の者の存在が、リクオに新たな力があることを教えてくれたのだから。
 この者が居なければ、今のリクオは無い。鴆が傍に居て、常に道を指し示し、信頼と力をくれたからこそリクオは力を得、三代目の代紋を継げたのだ。
 ならば何故、出入りに連れて行かないのか。理由は幾つかある。
 ひとつは、たとえ力になってもらえると判っていても、やはり基本的に体力の無い鴆を同行させるのは、彼に無理をさせるように思えてならないから。直接戦わなくても、戦場には危険が付きまとうから常に緊張の連続なのだ。
 ふたつ目は、リクオが鴆の力を纏ったとして、それにより彼を疲労させてしまうということ。纏った相手の畏を極限まで使用してしまう鬼纏は、どうしても相手を消耗させてしまう。鴆ならば、一度でかなり疲労してしまうはずだ。
 最後の理由としては、そのリクオの力になるという技にある。
 鴆の畏は、彼の毒の象徴である羽に集約されている。彼が畏を出すということは、即ち羽を出すということだ。鴆の力を纏うためには、羽を表に出させることになるのだが、百鬼夜行で行うそれは万人の目に羽を見せることでもあった。

『アレを他の奴に見せたくねぇんだよ、オレは』

 毒の塊であってもなお美しい羽。他者を魅了して止まない羽を、リクオは誰かの目に触れさせたくなかった。見れば触れたいと、欲しいと思ってしまう力が確かに存在しているのだ、彼の羽には。それはリクオ自身が体験して知ったことでもあった。
 鴆は確かにリクオの力になれる。けれどこれらの理由―――特に最後の理由―――から、どうしても義兄弟を出入りに同行させる気になれないリクオだった。






……本編に続く




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