空には朧月。風は殆どなく、辺りは静まり返っている。 ぬらりひょんの前には、漆黒の翼を持つ妖がひとり。彼との間にあるのは、空になった盃がふたつと酒の残る瓢箪がひとつ。 心地よい沈黙が、辺りを包む。暫し続いたそれを破ったのは、鴉天狗の方だ。 「貴方と……」 「ん?」 「貴方と、こうして盃の契りを交わす日が来ようとは……」 「考えもせんかったか?」 途切れた言葉の先を補って、口角を上げる。 身を覆う羽と同じく濡れるような黒い瞳が、幾度か瞬き、次いでぬらりひょんと同様に笑みを作る。ただしこちらは、まったく皮肉った色は存在しなかった。 「いいえ。初めから予感はありました」 「初め?」 「ええ。貴方と出逢ったその日に」 受けた言葉に、ほんの少し目を眇める。 「そんな昔にか?」 「然程昔でもありますまい」 「だが、あの頃のワシは、お前もそうだったが、今ほどの力は付けておらんかった」 鴉天狗と出逢った頃には、百鬼を集めようという考えもまだ、本気のものではなかった。百鬼夜行は夢のまた夢、それほどに未熟だった頃。 そんな自分と出逢った鴉天狗が、どうして今の姿を思い浮かべるというのか。大袈裟な言葉に、苦笑すら浮ぶ。 「確かに、あの頃は拙者も貴方も、まだまだ未熟でした。ですが貴方には充分な可能性があると、拙者には見えたつもりです」 「可能性、か」 「はい。必ず百鬼を率いるようになると」 「随分大きく出たな」 百鬼を集め束ねる。その決意と野望を持ちはしても、まだ集まったわけではない。いや、鴉天狗との盃が始めの一歩なのだ。 「その夢を実現するのに、この先どれほどの時間が掛かるか判らんぞ」 「どれほど掛かろうとも、実現出来ないとは思っておりません」 微笑を湛えた妖は、ぬらりひょんの言葉に臆する様子を見せたりしない。寧ろ自信に輝く瞳で見つめてくる。そして発する言葉もまた、自信に満ちていた。 「貴方が百鬼を率いる姿、拙者は必ず見られると信じております」 「お前がそれほどに信じてくれるのなら、ワシもそれに応えねばな」 「いつか百鬼を率いるのが貴方の夢ならば、百鬼夜行に加わりその背中を見るのが拙者の夢。己が夢を叶えるためには、力を惜しんだりいたしません。存分に拙者をお使いください」 「もちろん頼りにしておるぞ、くらままる闇真丸」 馴染んだ名を口にすれば、冠した名の通り、真の闇のような黒い瞳がほんの僅か眇められる。そして続けられた言葉に、ぬらりひょんの方は金色の瞳を見開いた。 「どうか、拙者のことは今後鴉天狗とお呼びください」 「どういう意味じゃ?」 「真名は、貴方に預けます」 「…………本気か?」 名は呼んだり呼ばれたりするだけにあるものではない。特に真名はその者の存在を示すものであり、魂を表す。力の強いものが真名を呼べば、それだけで相手を支配することだって有り得るのである。 それ故、妖は真名での呼び合いを避ける傾向にある。通り名を持ち、真名を隠す。他者に支配を受けないようにするために。 その真名を預けるということは、命を預けるということに等しい。鴉天狗の言葉に、ぬらりひょんは息を飲み込んだ。 「はい。これからの生涯、拙者の真名を口にするのは貴方のみとしてください。名と共にこの命、預けとう存じます」 覚悟を秘めた黒い瞳が、真っ直ぐにぬらりひょんを見つめてくる。揺らぎを見せない視線に、ぬらりひょんもまた覚悟を決めた。 目前の妖の、真名を預かる覚悟を。 「判った。お前の真名、確かにワシが預かる」 「ありがとうございます」 深く頭を下げる妖を見つめ、ぬらりひょんは空になっている盃に、再び酒を満たす。ひとつは己が手に。もうひとつは平伏す妖の前に。 「呑め、カラスよ。今度は約束の盃を交わそう」 主従としての盃ではない。真名を受け取る約束の盃。 「喜んで」 顔を上げた鴉天狗は至極満足そうな笑みを零す。眼を細めてそれを見たぬらりひょんは、己の盃を一気に呷ったのだった。 ********** 砂埃が完全に収まる頃には、敵の姿は何処にもなくなっていた。辺りにいるのは味方である奴良組の妖たちのみ。敵は負傷者を含め、全てがこの場より撤退していた。 「まったく、座りが悪いのう」 幾分機嫌がよくないと判る口調で話しかけられた鴉天狗は、声のした方を振り返る。飄々とした態度が売りの妖が、珍しくも顔を顰めて立っていた。 「ぬらりひょん様」 「カラスよ、お前もそう思うだろう?」 「確かに。奴ら、総大将が到着した途端、一斉に撤退していきましたからな」 「自分たちから仕掛けておいて逃げるとはな。おかげで無駄足を踏まされたわい」 その無駄足は、今回に限ったことではない。ここ一月ほど、こんな形で小競り合いが続いている。 一度や二度なら他愛もないことと流せるが、こうも繰り返されると苛立ちが募るのだろう。ぬらりひょんが珍しくも愚痴を零した。 「さっさとカタを付けたいもんじゃ」 「奴らの根城は探させています。もう暫くお待ちください」 「ああ」 任せる、と頷く総大将に、鴉天狗は頭を下げる。ところが下から伸びてきた手が、鴉天狗の顎を捉えて上を向かされた。もちろん、自分に一切の動作を気付かせずにそれが行えるのは、目の前に立つ妖だけだ。 突然のことに、鴉天狗は目を瞬かせる。直前まで不機嫌であったはずの主の表情が、一変して常のふてぶてしさを取り戻していた。 まずい。 とっさに警戒するが、顎を捕らえられている状況では身動きもままならない。鴉天狗が何かを言出だす前に、ぬらりひょんとの距離がなくなった。 嘴の端に、己以外の熱を感じる。近距離で黄金の瞳と視線が絡んだ。 反射的に躰が仰け反ってしまう。嫌悪からではなく、羞恥心が勝るためにそうしてしまうのだ。捕らわれている状況では、そんな行為は意味もないはずだが、ぬらりひょんは呆気なく鴉天狗を解放してくれた。 「お前が今その姿でなければ、もう少し熱いのをかましてやったんだがのう」 距離を置く鴉天狗に、可笑しそうに総大将が告げてくる。随分と機嫌が回復している様子のそれに、どうやらはけ口にされてしまった自分へ、ため息を零した。 戦場に立つとき、鴉天狗は己の力を出し切れるようにと、本来の姿で赴いている。人型にも成れるのだが、戦場でその姿を保つ意味はない。そしてこんな悪戯を受けるようであれば、ますます戦場では人型になってはならないと思えてしまった。 ぬらりひょんと鴉天狗の関係は、奴良組では既に知られていることだ。だから今の状況を見ていたものがあっても、何を言ってくるということはないだろう。けれど知られてはいても積極的に見られたくもないものだけに、こいうった絡まれ方はされたくないのが鴉天狗の本音だった。 こちらがどう感じているかなど判っているだろう主は、面白そうに見つめてくるだけだ。口元には不遜な笑みさえ浮かんでいる。それすら見せる相手を惹きつける力となっている男が、「さて」と改めて口を開いた。 「カラスよ、怪我人優先で、引き上げの指令を飛ばせ。今夜はもう終いじゃろうからな」 何気なく出された指令。けれど主の言葉の端に消しきれない苛立ちを感じ取り、鴉天狗は自ら彼との距離を開けてしまったことを僅かに後悔する。悪戯を仕掛けて明るく振舞ってくれたのが、この場を収めるためのものだと判ってしまったからだ。 大将として他の妖を率いるために、彼はどんな苦いものも呑み込む度胸と度量を持っている。今もやり場のない苛立ちを、自分の中だけで消化しているのだ。 本当なら、このまま相手の後を追って蹴散らしてしまいたい、というのが本音だろう。しかしそれを行うには時期が悪かった。 奴良組は未だ成長途中の組織だ。ぬらりひょんを要に、関東一円に勢力を伸ばし始めた若い組織である。頭角を現しかけた組織であるが、若い分組織の結束力はまだ強いとは言い切れない。勢いだけで突き進むには、背後が危ういのだ。 きっと今奴良組に仕掛けている輩も、それが判っているはずだ。だからちょっかいを掛けては退くということを繰り返し、こちらが浮き足立つのを待っているのだろう。 相手の策略に乗るわけには、当然いかない。ここは我慢して機を狙うしかないのである。 血気盛んな妖が、我慢を強いられるのは中々に大変だ。更にそんな者たちを纏めなければならない立場ならなおのこと。そんな立場に自ら立った主を、鴉天狗は見つめることしか出来なかった。 ……本編に続く
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